なぜ、釈迦は苦行を諦めたのか?

ヒンドゥー教では、体を酷使する苦行によって、悟りを得ようと頑張ります。

しかし、苦行を始めたからと言って、誰もが幸せになるとは限りません。

 


参照元:http://tatsuyamatsumoto2009.naturum.ne.jp/e815500.html

 

おそらく、釈迦もそれが分かったので、苦行を離れて独自の道を求めるようになったのでしょう。

ですが、何事においても同じことが言えるように、ある程度の試練は必要です。

筋トレでマッチョを目指すにせよ、要領だけではいつまで経っても目標には到達しません。

 

前回の続きをお話する傍らで、脳内ホルモンについてもお話しします。

 

 

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永平寺の苦行は座禅だけではなかった

禅堂での修業は、ただひたすら座禅を組むことでした。

食事中も足を崩さず、様々なしきたりを守りながら行われます。

寺に入ると、まず袴と衣にお着換えです。

 

それに加えて、応量器が手渡されます。

托鉢するお坊さんが手に持っている、木でできた丼ですな。

大小いくつかの椀が入っておりまして、托鉢では、一番大きな器だけを取り出して用いるようです。

 

この応量器、実はお釈迦様の頭蓋骨を意味するらしく、大変丁寧に扱わねばなりません。

とは言え、修行中は洗うこともなく、椀の中に食事中にいただいた湯を入れて、それでささっとゆすいで終わりです。

もちろん、洗い終わったとのお湯は、飲んでいたように思います(この辺りの記憶がはっきりしません)。

 

ただ、禅寺の食事は、全てお坊さんが準備してくれるだけではなく、座っている場所まで持ってきてくれました。

しかも、ご飯が欲しいなら、麦飯の入ったお櫃を前に、合掌していればよそってくれます。

禅堂では一切言葉を発してはいけませんから、意志の疎通は全てハンドサインです。

もしいらなければ、右手だけをひざ元に下ろして、掌を相手に見せながら、軽く「あっち行け~」って振るだけ(前後にです。横ではありません)。

 

食事の作法は、応量器をもらった時に教わるのですが、それもたった一度しか説明してくれません。

その一度っきりのレクチャーを聞き逃せば、食事ですら地獄に変わります。

なぜなら、ご飯やおかずのおかわりは自由なんですが、おかわりをしたはいいが、作法を心得ていないととんでもないことになるからです。

 

私が修行を初めて数日後、体験座禅の人達がやって来ました。

見たところ、どこかの会社か施設から派遣されたのか、到底自分で修業をしようとするようなタイプの人ではありません。

応量器についての説明も、おそらくいい加減に聞いていたのでしょう。

 

中でも、頭を短く刈った巨漢の男性がおりまして、ずいぶんとお腹が減っていたのか、ご飯と漬物のおかわりをしていました。

 

 

寺の作法は精神の修行だった

ご飯が欲しければ合掌、ただし、しっぱなしではご飯がてんこ盛りになります。

そこで、右手をクイクイッと動かして、「もう要りませんよ」と合図をするわけです。

ところが、中にはフェイントとも呼ぶべきサインがありまして、一番小さな椀を使うときがこれに当たります。

 

小さなお椀は、両手に挟んで顔の前で持っていなければなりません。

そして、十分おかわりをもらったら、人差し指でお椀のふちをチョンチョンッて叩きます。

それが合図で、食事当番のお坊さんは次のおかわりを求める人のところへと移動するのです。

 

ところが、頭を刈り込んだ例のあんちゃんは、その作法を聞いていなかったのでしょうね。

彼の場合は、お椀を板の間の上に置いたまま合掌していたのが「あだ」となりました。

麦飯をもらう時のハンドサイン(掌を見せて振るやつ)をするもんですから、漬物係りのお坊さん、いつまで経っても漬物をよそう手を止めません。

 

見る見るうちに、高さが5センチほどの漬物の山ができまして、さすがにそのあんちゃんは、お坊さんから小言を食らっておりました。

ちょうど、彼は私の斜め前にいたもんですから、嫌でも目の端に留まります。

ひざは痛いは、漬物の皿を見たら笑えるわで、感情を押し殺すのに苦労しました。

 

おそらく、お坊さんも分かっていながらやっていたんだと思います。

坊さんの中には、体験修行を快く思わないお人もいるのでしょうね。

おバカなあんちゃんは、そんな気の悪い坊さんに当たってしまったわけです(ナンマイダ~)。

 

作法とは、それだけで色々な意味を持ち、特に日本の茶道などでは、動きを最小限に抑えて無駄を省き、それでいて所作が美しくなるように考えられています。

集団で体験に来た人たちは、作法の部分で苦労をされていたようです。

筋トレに置き換えてみれば、正しいフォームと言ったところでしょうかね。

 

さらに過酷な大講堂

朝のお務めの最後を飾るのは、大講堂での読経です。

経文を二冊渡されているので、それを開いてお経を読みます。

永平寺のお偉方が一堂に会する時間でもあるので、かなり緊張した雰囲気の中で行われていました。

 

この読経が、また曲がらない私のひざにとっては、苦痛以外の何者でもなかった。

禅堂では半跏坐でしたが、大講堂では正座です。

これがまた痛いのなんのって。

 

今では全く平気になりましたが、その当時は正座が一番苦しかったです。

しかも、一番偉い坊さんが何か言えば、全員が立ったり座ったりの繰り返し。

あまりにも痛くて少し腰を浮かしていたら、いきなり雲水が飛んできて、「しっかり座らんか!」って言いながら、浮いたケツを思いっきり蹴とばして行きました。

 

夏休みでもあり、大講堂の周りには観光客がひしめいていましたが、その中で私はケツを蹴られていたのです。

格好悪いというか、恥ずかしいというか、少し前の私なら、髪の毛を掴んで(坊さんだから髪の毛は無いか)ひざ蹴りをたたき込んでいたでしょうね(笑)。

ま、冗談はさておき、そんな修行が7日間、朝から晩まで続いたわけです。

 

しかし、雲水さんは、やはり自身が修行に来た人ですから、座禅以外のところではとても人情味に溢れた人ばかりでした。

当時はまだ18歳、ひざも痛くて座り方もおかしかったのでしょう。

めっちゃくちゃ厳しい雲水さんが一人いて、その人が禅堂での食事時、私を見かねて小声で言った言葉が忘れられません。

 

「外見がどう見えようとかもまいません。やるときにしっかりとやり、いつも清潔な肌着さえ着けていれば、人間はそれでいいのです」

修行する坊さんらしい、素朴な、心に響く言葉だなと思いました。

一週間後、ケツを割らずに修行を終えた日、その雲水さんだけが、合掌して私の下山を見送ってくれていました。

 

こうして、無事リタイヤすることもなく修行を終えて帰ったわけですが、あの経験は貴重でしたね。

今ではひざの痛みも無くなり、結跏趺坐をしても苦になりませんが、はたして同じ修行をできるかと思えば……。

若いときには、できるだけ面白いことを経験しておくべきですな。

 

 

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座禅とセロトニン

脳内で分泌される、幸福ホルモンの一つとされるセロトニン。

座禅をしていても分泌されると言われていますが、私はそうは思いません。

もし、分泌されるとするなら、それはよほど座ることに慣れた人です。

 

座禅も、基本的には瞑想ですから、呼吸や拍動の音が聞こえなくなれば、いわゆるゾーンに入ります。

外界からの刺激を遮断し、潜在意識に到達できれば、セロトニンと言わずドーパミンも出まくりでしょうが、そこまで行くには座禅では少し遠回りです。

セロトニンを出すには、普通に体をリラックスさせて、瞑想した方が効果的でしょう。

 

座禅も苦行の一種なので、釈尊が途中でお止めになったように、どれだけ続けてもある一線を越えられずに終わるかもしれません。

簡単に、座禅でセロトニンが出るなどとうそぶく連中は、私はあまり信用できませんな。

脳内の快楽物質を分泌させるなら、座禅ではなく、リラックスした状態で行う瞑想がおすすめです。

 

セロトニンを増やす方法

筋トレは、セロトニンを増やすにもいいかもしれません。

まず、筋トレで成果を上げるには、タンパク質中心の食生活を送る必要があります。

セロトニンは、大豆や肉に多く含まれ、特に肉ならレバーを食べるのがいいでしょう。

 

必須アミノ酸の一つである、トリプトファンを多く含む食品がおすすめです。

さらに、太陽の光に当たるのもいいようですね。

体内時計がリセットされ、夜型でストレスの溜まった体にも、セロトニンが癒しの効果をもたらしてくれますから。

 

筋肉は、単調な運動を繰り返すことで発達します。

セロトニンの分泌を促すのも、脳内で起こる単調なリズムの繰り返しが関係しており、それがある種の引き金になるようです。

ただし、瞑想や筋トレでセロトニンの分泌量は増えるでしょうが、性格が温厚になるとか、気が長くなるようなことはないでしょう。

 

あなたの持つセロトニントランスポーターが、LL型や、少なくともSL型でない限り、セロトニンが継続して流れても、性格までは変わりません。

筋トレをするときは、とにかく集中して、呼吸を止めずに、短時間で行いましょう。

筋肉も大きくなってセロトニンも増えるなら、まさに一挙両得です。

 

二回に渡っておおくりしてきましたが、座禅の話は以上です。

次回は、またトレーニングについてお話しします。

 

 

 

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終わりに

いつもはメガネをかけているのですが、最近は裸眼のままで生活していることが多くなりました。

遠くの景色はぼんやりしますが、それほどの支障もないので放っています。

ときどき、外しているのを忘れて、「なんか、最近見づらくなったな~」なんて一人でぼやいています。

 

手の付けようがないバカ者ですね(笑)。

今回も、最後までお読みいただき、ありがとうございます。

また、次回もお楽しみに。

 

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